「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第1回)藤原達郎

2017.08.02

エロいことを考えるのに飽きて昼寝していると、脇内主任に起こされた。大好きな昼休みを邪魔されて、宇都宮は不機嫌だった。不機嫌が顔に出ないのが宇都宮のいい所だった。

印刷物に客からクレームがついた。フリーで配布している求人情報誌の仕事で、スーパーの出入り口に設置されたラックなどでよく見かける。表紙ではピーマンのマスコットキャラクターがにっこり微笑んでおり、そのキャラクターに汚れのようなものがついていた。

原因を検証するため、担当営業の脇内と、印刷機のオペレーターである青木裕基が、宇都宮の操作するコンピュータ画面を後方からのぞき込んでいた。

「印刷の汚れじゃないの?」脇内が言った。
「10000部刷って、全部汚れてるんで」青木が言った。
「じゃあ、データか」脇内は印刷物をながめた。

汚れは、印刷機の不具合で付くことが多いのだが、すべての印刷物に同じ汚れがつくことはあまりないので、データを検証することになったらしい。

「青木も宇都宮も、よく見て作業してくれよ。客から怒られるの、俺なんだからさ」脇内が愚痴をこぼした。脇内は愚痴っぽかった。

「すいません」宇都宮は言った。悪いとは思っていなかった。なんならまだ半分寝ぼけていた。実際、データはデザイナーが作っており、宇都宮は変換処理をしただけで、小言を言われるのは筋違いだった。しかし客から直接怒られるのは脇内なので、「ごくろうさまです」の意味を込めて「すいません」と言った。脇内の後退し始めた額から苦労がうかがえた。歳はそんなに変わらないはずだが、脇内は主任になってからどんどん老けた。

青木は無言だった。デスクにあったセロテープをピッと引っぱり、数センチ切り、机のすみに貼った。青木も自分は悪くないと思っていた。毎日何十件とある作業の中で、数ミリの汚れに気付けという方が酷だ。どこかに必ずいるとわかっているウォーリーを探す方が断然楽だった。

ピーマンのキャラクターはピーマンが顔になっており、目と口が不自然なほどでかく、顔から直接手と足が生えていた。かわいくなかった。こういうのを擬人化っていうんだっけ、擬人化は、あれか、もっと人間の割合が多いやつか。ーー宇都宮はどうでもいいことを考えながらコンピュータを操作した。ピーマンのくせに赤い帽子をかぶっている。ヘタに引っ掛かっていると言った方がいいのかもしれない。そしてアゴからほっぺたにかけてが黒く汚れており、虫に食われたように見えた。

「データです」宇都宮は脇内の方を振り返った。
「データだな」脇内は印刷物と画面を見比べた。
「データですね」青木はセロテープをピッと切って机に貼った。

脇内の携帯電話が鳴った。番号を確認し、あちゃあという顔をして、電話に出た。「もしもし、キタヤ印刷の脇内です。…いつもお世話になっております。…えぇ、この度はご迷惑をおかけしまして…えぇ、大変申し訳ありません。…えぇ、今ですね、その、汚れの原因を検証している所でして、えぇ…どうやらデータにゴミが残っているというか、…えぇ、ゴミです…いや、ゴミと言っても、物理的なゴミじゃなくて、その、データ上のゴミとでもいいますか、ははっ…あ、いや、すみません…えぇ…」

脇内のあいづちは「えぇ」がやたらでかい。謝り倒している姿を見られたくないのか、電話をしながら脇内はフロアから消えていった。

この会社は人員の入れ替わりが激しい。労働環境に対して賃金が見合っていないという理由で辞めて行く者が多い。青木は、毎月30万くらいほしいなと思いながらセロテープを切った。青木も別にこの業種にこだわりがあるわけではなかった。なんとなく勤めていた。楽にもっと稼げる仕事があれば、喜んで転職した。きれいにセロテープを切ることで30万もらえる職業はないだろうかと想像した。ない、と断定した。改めてコンピュータの画面を見た。

「…これ、なんか、文字っぽくないですか?」青木が言った。青木の視力は裸眼で2.0だった。
「え?」
「汚れの所です」小さくてわかりにくいが、黒い汚れは漠然とした汚れではなく、何かの形を成しているように見えた。
宇都宮は、ピーマンの汚れの部分を画面上で拡大表示した。やっぱり文字だった。400%まで拡大した所で、何と書いてあるかが判別できた。

「ピータン→アヒルの卵」

ピーマンのアゴの所に、黒いゴシック体で「ピータン→アヒルの卵」と書かれていた。そして文字の横に卵を半分に切ったイラストが添えてあった。宇都宮と青木はぽかんとした。

「…ピータンだな」
「ピータンですね」
「ピータンって、アヒルの卵なの?」
「さあ、知りません」
「ピーマンと関係あるの?」
「『ピー』と、『ン』が、一緒ですね」
「…うん」と宇都宮は言った。他に言いようがなかった。

聞いてみないことにはわからないが、おそらく、デザイナーがデータ上で落書きをして、消し忘れたんじゃないだろうかと宇都宮は思った。

「このキャラクター、名前あるの?」宇都宮が聞いた。
「いや、知りません」青木が答えた。
「じゃあ、付けて」
「え?」
「名前、付けて」
「…ピーたん」

宇都宮は椅子を回転させ、青木を見た。青木も宇都宮を見た。まあ、名付けるとしたらピーたんだった。

電話を終えた脇内が帰ってきた。宇都宮はとっさに画面の表示を隠した。やましいことはないが、なんとなく隠した。青木が「え?」という顔をした。宇都宮のせいだと思われたかもしれない。「ちがうよ」という意味を込めた目線を返した。伝わっていなかった。

「なんか、わかった?」脇内が言った。
「ピータンって、アヒルの卵らしいですよ」宇都宮が言った。
「…ピータン?」脇内はぽかんとした。青木がセロテープを数センチ切って机に貼った。
「ピータンって、あのピータン?」
「え、どのピータン?」
「あの、中華料理とかで食べる…」
「あ、正解です」
「あ、やった」
「中華料理とかで食べるピータンです」
「…それが、何?」
「アヒルの卵らしいですよ」
「…へえ」
「…はい」
「…で?」

数分後、脇内はデザイナーに激怒していた。

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