「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第1回)藤原達郎

2017.08.02

終業を告げるサイレンがけたたましく鳴った。宇都宮の会社では、チャイムの代わりにサイレンが鳴る。併設の工場では大型の印刷機が轟音を立てて稼働しているため、機械を扱っている社員には、ちょっとやそっとの物音では聞こえないのだ。

宇都宮は夜勤者に作業の引き継ぎを行い、「おつかれさまでした」と作業場をあとにした。荷物を取りに更衣室へ向う途中、通路で総務部の若い女性と鉢合わせ、宇都宮が右に避けると女性も右に、左に避けると女性も同じ方へ避け、「すいません、すいません」とぐだぐだになりながらすれ違った。宇都宮は、なぜかよくこれをする。よりによってなんで若い女性なんだと悔やんだ。

更衣室のロッカーの前で着替えをしていると、太田カツキが近づいてきた。青色の作業着が黄色のインキまみれになっており、くすんだ緑色に見える。

「これ、はい」と、太田がタスポを返してきた。珍しく太田に貸したものが返ってきた。太田の手にもインキがついていたため、タスポにもインキがついた。タスポはインキをはじいた。
「服、汚れ過ぎじゃない?」タスポを受け取りながら宇都宮が言った。インキは宇都宮の手にもついた。
「撹拌(かくはん)してたら、飛び散ってさ」
「手、洗えよ」
「洗って、これなんだよ」

話を振ったものの、宇都宮は太田の話に興味はなかった。「へえ」と言い、ジーンズの腿の辺りで、手とタスポについたインキを拭いた。拭いた部分だけ、ジーンズの色が沈んだ。

宇都宮の私服はTシャツにジーンズだった。数年前に近所のショッピングモールで買った。宇都宮は着る物にこだわりがなかった。可もなく不可もなく見せることに努めた。自分の外見を良く見せることに、あまり意味を見出せなかった。女性にはモテたいが、自分がファッションにこだわった所で、女性の視線を引けるとは思えなかった。費用対効果が低いと思っていた。

それに対して、太田の服装は奇抜だった。作業着を脱ぎ、ロッカーからマンダラのような模様をあしらったシャツを取り出した。だぼだぼのズボンには縦縞が入っており、シュッと見せたいのか何なのかわからない。さらにシャツの上から麻っぽい素材のポンチョを羽織った。ガヨ族の民族衣装のように見えた。

ガヨ族とはインドネシアのスマトラ島に住む民族である。高地や沿岸部で主に暮らしており、低地に住むアチェ族とは異なる。ガヨ語を話す。伝統舞踊のサマンダンスは、大人数で膝立ちになり、音楽に合わせて上半身だけで踊る。2011年にユネスコの無形文化遺産に登録された。

ガヨ族ならわかるが、北九州市に住む日本人がその服装をチョイスする理由が、宇都宮にはわからなかった。値段も安くはないだろう。そして金髪だった。

「そのポンチョはさ、どこで売ってるの?」
「古着屋」カラフルな玉が連なったブレスレットをつけながら太田が言った。
「いくら?」
「4800円」なんとも言いづらい値段だった。
「…その服はさ、モテるの?」
「え?」太田が眉間にしわを寄せてこちらを見た。レンタル屋に並ぶDVDジャケットの竹内力みたいだった。「モテるとは思ってないよ。モテたいけど。まあ、モテないんだけど」
「じゃあ、その服は、誰に対する、何なの?」
「いや、そういうんじゃなくて、好きで着てんだよ」
「…へえ」宇都宮は言った。宇都宮にとって服は他人に自分の印象を植え付けるツールで、記号のようなものだった。あとは防寒なり、恥部を隠すなりの機能を備えた道具だ。そこには好みの概念が欠けていた。自分の好きな服装とはなんだろうと考えても、何も思い浮かばなかった。

自分の弱点を指摘されたような気になり、宇都宮は複雑な気持ちで、太田の肩を軽くパンチした。口元はゆるんで半笑いだった。

そのパンチをどう理解したのか、太田は笑いながら、宇都宮の腰から尻の辺りにけっこうな勢いの蹴りを入れてきた。「んぎっ」と宇都宮は変な声をあげ、衝撃でよろけてロッカーにぶつかり、部屋中にスチールの音が響いた。帰り仕度をしていた他の社員たちが、何ごとかとこちらを見た。

「あ、ごめんごめん、ごめんごめんごめん…」と太田が笑いながら「ごめん」を連呼し、変な中腰で近づいてきた。

太田のそういう所だった。

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