「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第1回)藤原達郎

2017.08.02

太田に蹴られた所があざになった。まだ明るい駅のホームで、宇都宮はジーンズのベルトをゆるめ、蹴られた所を確認した。左の腰骨の下が青く変色している。ベルトを締め直すと、にぶく痛んだ。明日は太田を無視しようと決めた。電光掲示板を見た。乗り合わせが悪く、20分ほど待たなくてはならない。

宇都宮は電車で通勤していた。家から三駅ほどの距離だが、歩くには遠いし、車は持っていない。車の運転が下手だった。一時期は自転車で通勤していたが、帰りにエロいDVDを借りようと思ってレンタル屋に寄った際に盗難された。

ホームは島式になっており、両側にそれぞれ、上りと下りの線路が走っている。前の電車が出たばかりで、人はまばらだった。宇都宮はベンチに腰掛け、スマホを取り出した。画面が汗の油で汚れている。Tシャツのすそで雑に拭き、フェイスブック、ツイッター、ラインと、SNSアプリを一通りチェックした。そんなに仲良くもない知り合いの、子どもの写真だったり、ペットがじゃれる動画だったり、仕事の愚痴だったりを流し見た。まだ5分も経っていない。ホームの隅にあったスタンド型の灰皿は今年に入って撤去された。タバコも吸えない。

「おつかれさまです」と声をかけられ、スマホから目を上げた。青木裕基だった。会社からの最寄り駅なので、ここで社員と会うことはめずらしくなかった。青木がとなりに座った。
「おつかれ」宇都宮が言った。「脇内主任、怒ったな」
「怒りましたね」

宇都宮も青木も、仕事のこと以外で特に共通点はなかったので、それ以上会話が続かなかった。青木がスマホを取り出していじり始めた。こいつ、なんでわざわざ俺のとなりでスマホいじるんだろう。エロい動画を見ようと思っていたが、同僚の横で見るのは気が引けた。迷惑だった。そんなにベンチに座りたかったんだろうか。人は徐々に増え始め、乗車口の前にぽつぽつと列ができていた。

宇都宮はSNSに飽きてスマホをポケットにしまった。変な鳴き声が聞こえた。声のした方に目をやるとハトがいた。でもハトの鳴き声じゃないと思う。鳴いたのだからいないことはないが、宇都宮には見つけられなかった。線路の向こうに歯医者、エステ、泌尿器科の順で看板が立っている。医療系ばかりだった。そのまま線路沿いに等間隔で植わっている木に視線をうつすも、植物に興味がないので何という木なのかわからなかった。丸みのある葉っぱが茂っている。そして自分はアトピーだからあの葉っぱにさわるとそのさわった部分がミミズ腫れのようになってかゆくなってかきむしって結果血が出ていやだと思う。セミがうるさい。

「…あっ、」スマホの画面を見ながら青木が言った。宇都宮は青木を見て、そのあとの言葉を待ったが、青木はそのままスマホをいじっていた。こいつ、マジでどっか行ってくれないかな。

ベンチは背中合わせになっており、反対側では女子高生の二人組が早口でしゃべっていた。髪の長い方が短い方に、周囲を気にすることなく「タクヤのLINEがマジうざくてー」と彼氏らしき男の不満を訴えた。

「まもなく、1番乗り場を列車が通過します」と女性のアナウンスが流れた。踏切の警報機が遠くでカンカンと鳴った。

宇都宮の左側から特急の青い車体が轟音を立てて滑り込んできた。容赦のないスピードだった。あんなのにぶつかったら人間は原形をとどめておけない。なぜなら70パーセントが水だから。太田に蹴られたらあざになるが、特急に体当たりされたら破裂する。そして北九州市民の足に遅れが生じる。

自分の事故で電車が止まり、市民が駅員に不満を言う姿をぼんやりイメージしていると、青木がこっちを見て何かを言っていた。特急の轟音で全然聞こえない。「え?」と宇都宮は声を張り、青木の方に耳を突き出した。青木も近寄り、声を張った。青木の口がくさかった。口臭は届いたが、言ってる内容はまったく届かなかった。

特急が通過し、再びセミの声がホームをおおった。

「お好み焼き、食べに行きません?」3回目の青木の提案だった。
「え?」
「お好み焼きです」
「…お好み焼き?」
「今日までなんです、クーポン」青木がスマホの画面をこちらに見せた。
「…お好み焼き?」宇都宮は同じ言葉を繰り返した。なんで青木が自分をメシに誘うのか、理解できなかった。
「嫌いですか?」
「青木のこと?」
「いや、お好み焼き」
「嫌いじゃないけど」
「俺のことは?」
「え、別に、なんとも」
「じゃあ、行きますか」
「え…じゃあ、うん」

背後の女子高生が立ち上がり、祭りに浴衣で行くかどうかを相談しながら離れて行った。

女性のアナウンスが列車の到着を告げた。宇都宮と青木は立ち上がり、乗車口にできた列の最後尾に並んだ。なし崩し的に、青木とお好み焼きを食べに行くことになった。ハトではない何かがまたどこかで鳴いたが、宇都宮には見つけられなかった。

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