「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第1回)藤原達郎

2017.08.02

宇都宮の家の最寄駅を通り過ぎ、降りたことのない駅で降りた。青木が先導して路地に入り、車一台通るのがやっとの、舗装されていない道を歩いた。いつ降った雨かわからない水たまりが所々に残っており、土と混ざって汚らしい。両側の家のブロック塀から、小さくて密集した木の葉が覆いかぶさり、この辺りだけ薄暗く、空気もなんだか湿っている。外灯はかなり間隔をあけて設置されていて、この道は夜になると真っ暗になるのだろうと宇都宮は思った。

「…遠いの?」
「すぐです。すぐ」青木は前を向いたまま言った。

青木のリュックサックを見ながら、宇都宮はもう帰りたいと思っていた。目尻を汗が流れる。なんで青木の誘いに乗ってしまったんだろう。大して仲良くもないのに。ブロック塀の上に茶色の猫が寝そべっており、目があった。あ、ハムスターにエサやんなきゃ。宇都宮は家で待つハムスターのことを考えた。ハムスターが宇都宮の帰りを待っているかどうかは別として、宇都宮はハムスターを飼っていた。

路地を抜けると車通りの多い道にぶつかった。業者の車や荷物を積んだトラックが、法定速度を軽く越えてびゅんびゅん通り過ぎた。空は黄色がかってきており、もやんと浮かぶ雲が車と対照的にのろく流れた。その道の向こうに、「お好み焼き たけちゃん」の赤い看板が見えた。

がらがらと格子状の引き戸をあけて店内に入ると、「いらっしゃいませ、何名様ですか」と、金髪を後ろで一つにまとめた若い女性店員に聞かれた。看板と同じ赤のエプロンが似合っている。青木は言葉を発さず、右手をチョキの形にした。「二名様、ご案内です」と女性店員が言うと、やたら威勢のいい「いらっしゃいませ」が厨房から返ってきた。中ほどのテーブル席に案内され、青木と宇都宮は対面して座った。木製の椅子は角ばっていて床をすべらず、がこがこと固い音を立てた。座り心地も固い。女性店員が鉄板に火を入れた。

こじんまりとした店内は夕方からほとんどの席が埋まっており、鉄板と人の熱気でくらくらした。壁側はベンチシートになっている。いつから貼ってあるのか、色あせたポスターの中で水着姿の女性タレントがジョッキを持って笑っていた。サラリーマンぽい4人組、夫婦らしきじいさんとばあさん、小学生の男の子のいる家族連れと、客層はさまざまだった。そうか、今日、金曜日か。宇都宮は明日も出勤だと思っていた。曜日の感覚がうすい。太田カツキを無視するのは月曜日に延期した。

金髪の女性店員が水の入ったコップを持ってきた。この娘がたけちゃんだろうか。でもバイトっぽいからちがうよな。

「お飲物は?」
「瓶ビール」と青木が言った。「宇都宮さん、ビールでよかった?」
「あ、うん」
「じゃあグラス2つ」

女性店員が伝票にチェックを入れ、厨房に戻って行った。笑顔を見せない。でもそこがいい。ひたいに浮く汗が色っぽい。宇都宮の思考は気持ち悪かった。メガネをかけたサラリーマンも女性店員を目で追っていた。似たようなことを考えているんだと思う。

「メニュー、どうぞ」青木が鉄板の下あたりからメニューを取り出した。身のこなしが店に慣れている。
「よく来るの?」
「まあ、たまに」

宇都宮はメニューを受け取った。黒くて厚い表紙をめくると、墨文字でメニューがびっしり書かれていた。目が泳いだ。

「…多いな、メニュー」
「左上の方が、お好み焼きのメニューです」

青木の言われた通り左上を見ると、他よりも太い字で「お好み焼き」と書かれ、その下に豚玉、イカ玉、エビ玉…とメニューが続いた。お好み焼きカテゴリーの一番下に「スペシャル」と書かれている。説明が一切ない。

女性店員が瓶ビールとグラスを持ってきて、テーブルの、鉄板になっていない端の方に置いた。

「ご注文をうかがいます」
「スペシャルで」青木が言った。青木はスペシャルだった。宇都宮は豚玉を注文した。
「以上でよろしかったでしょうか」
「焼きそば、食います?」青木が宇都宮に聞いた。
「あー…でも、量がわかんないしなあ」何より焼きそばはカップ麺で食い飽きていた。
「半分こしましょう。あと焼きそば一つ」焼きそばのオーダーが通った。

厨房では男性が二人、忙しくヘラを動かしていた。一人はひょろっと背が高く、顔の濃い男で、もう一人はがたいのいい、頭にタオルを巻いた男だった。あのどちらかがたけちゃんなのか。言われてみれば二人ともたけちゃんぽいと思ってしまう。あとビートたけしの顔が思い浮かぶ。

青木がビールの瓶をこちらに傾けてきた。

「…スペシャルって何?」宇都宮はグラスで受けた。
「スペシャルなんです」
「何が?」
「具」

青木の分をつごうとしたら、青木は手酌でついだ。

「じゃあ、おつかれさまです」
「おつかれさま」

青木と宇都宮はグラスをかちんと合わせ、ビールを飲んだ。小学生の男の子が背もたれにのけぞり、「もう食えん」とうなった。
しばらくして女性店員が具材を持って来た。底の深い器の中で、宇都宮は豚玉の具を混ぜた。青木はスペシャルを混ぜている。具の量は豚玉と大して変わらないが、スペシャルには山芋が入っていてうまそうだった。スペシャルの中身が気になり、手元がおろそかになって豚玉が飛び散った。

(つづく)

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