「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第4回)藤原達郎

2017.08.23

58階に降りた。吹き抜けになっており、デッキから濃紺色の空が見えた。マサミ姉ちゃんは「何か飲もう」と言って、喫茶スペースの方に行った。宇都宮は「先にトイレ見て来る」と言って別の方向に歩いた。トイレもガラス張りになっているらしいのだ。

昼間ならもっと家族連れや観光客が多いのだろうが、カップルが目立った。デッキに座り、どの組も密着するほどの距離で夜景を見下ろしていた。なんなら密着していた。

トイレに入ると小便器が並んでおり、その背後がガラス張りになっていた。「ちょっと待ってて」と言いながら、エレベーターで一緒になったカップルの男の方が入って来た。はた目から見れば、自分とマサミ姉ちゃんもカップルに見えるだろうか。まあ、見えた所で従姉妹同士だからどうしようもないのだけれど。あれ、従姉妹同士って結婚できるんだっけ?できたとして、俺はマサミ姉ちゃんとそういう関係になりたいのか?マサミ姉ちゃんと会えることになった時のワクワクは、デートのワクワクか?何年もデートしてないからわからない。自分はマサミ姉ちゃんに恋愛感情や性欲を抱いているのだろうか。ちがうんじゃないか。でも似た何かは持ってるんじゃないか。タブーをおかすスリルか。いやそうじゃないだろう。ーーあれこれ考えながら、宇都宮は大阪の夜景を背負って小便をした。解放感もあったが、変な緊張感もあった。小便はあまり出なかった。

トイレから戻ると、マサミ姉ちゃんはスマホをいじりながらコーヒーを飲んでいた。その姿を眺めていたら、タクシーのナンバープレートのことを教えてくれたのはマサミ姉ちゃんだったことを急に思い出した。マサミ姉ちゃんは適当だ。宇都宮はアイスコーヒーを買い、マサミ姉ちゃんと対面して座った。マサミ姉ちゃんが顔を上げた。

「どうじゃった、トイレ」
「ガラス張りやった」
「気持ちよかった?」
「あんま出らんやった」
「あはは」

マサミ姉ちゃんがコーヒーを口に近づけた。メガネが湯気で一瞬曇った。

「隆広、結婚したんじゃろ?」
「うん、まだ籍入れとらんけど」
「奥さん、どんな人?」
「なんかおばちゃんみたいな人」
「なんそれ」
「おばちゃんみたいなんよ、なんか」
「セイヤは嫌いなん、奥さん」
「いや、おばちゃんみたいで、いいんよ」
「おばちゃんは褒め言葉じゃねえが」
「でもおばちゃんみたいなんよ」
「すげえなあ、隆広がなあ」

そう言いながらマサミ姉ちゃんは外を眺めた。遠くに飛行機が飛んでいて、暗い空に点滅する光が少しずつ動いた。

「セイヤは、結婚」
「せんよ」
「なんで?」
「相手がおらん」
「おらんの、彼女?」
「おらん」
「作らんの?」
「できん」
「へえ」興味があるのかないのか、マサミ姉ちゃんはよく「へえ」で話題を切った。宇都宮も太田カツキなんかにはよく「へえ」と言うが、それはマサミ姉ちゃんの影響だった。
「…姉ちゃんは?」
「何?」
「彼氏」
「あたしは…さすがにまだええわ」
「…そうなん?」
「まあ、そのうち、気が向いたら」
「…あへえ、」へえで返すのはなんだか気が引け、ちがう言葉で返そうとして変なあいづちになってしまった。
「実家には帰らんの?」
「帰るよ、たまに」
「そうじゃなくて、おじちゃんとおばちゃん」
「え、親父とおふくろ?」
「同居せんの?」
「…同居?」宇都宮はそんなこと考えたこともなかった。まだまだ先の話だと思っていた。そしてマサミ姉ちゃんから言われるなんて思ってもみなかった。
「おじちゃん、もう定年じゃろ?」
「…そうやけど」
「あんた、隆広に先越されるで」
「それはもう、目に見えてそうやわ」
「おじちゃんは知らんけど、おばちゃんは隆広よりセイヤに帰ってきてほしいはずで」
「え、なんで?」母のそんなそぶりは見たことない。気づいていないだけなのかもしれない。
「あんた、鈍いな」
「…長男やけ?」
「そんなんどうでもええわ。おばちゃん的には、同居するなら隆広やなくてあんたじゃが」
「なんで?」
「察し、それは。おばちゃん見てたらわかるが」
「…わからん」宇都宮にはわからなかった。マサミ姉ちゃんにはわかるようだった。
「…あたしは同居する気満々じゃったけどな、軽井沢」
「…あぁ」なんで離婚したの、と聞くなら今だと思ったが、気が引けてやめた。
「実家ももうないしな」
「え、岡山の家、引越したん?」
「あるよ。あるけど、あそこはもう実家ではないわ」
「…実家やろ」
「実家は実家じゃけど。帰ってないわ、ずっと」
「…そう」
「じゃけセイヤ、よう考えり。まあ、あたしに言われたくないか。あはは」マサミ姉ちゃんは笑った。メガネの奥の黒目は笑っていなかった。宇都宮はいつの間にか全身に変な力が入っており、首の骨をごきごき鳴らした。
「…揉んじゃろか、首」
「え、いいよ」
「なんで、揉んじゃるよ。本職やでこっちは」

マサミ姉ちゃんは立って宇都宮の背後に回り、宇都宮の首を揉んだ。

「いてててて」
「固いな、あんた。ちょっと毎日ストレッチし」
「どんな?」
「知らんが、なんかストレッチ」
「適当やな」

宇都宮は、マサミ姉ちゃんがどんな顔をして自分の首を揉んでいるのか見たかったが、後ろに立っているので見えなかった。マサミ姉ちゃんはしばらく宇都宮の首を揉んだあと、肩から肩甲骨にかけても揉んだ。

「なんじゃこれ、セイヤ、肩甲骨ねえが」
「肩甲骨はあるやろ」
「ねえが。指入らんもん」
「いてててて」

マサミ姉ちゃんのマッサージは、気持ち良さよりも痛みの方が強かった。

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