「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(第8回)藤原達郎

2017.09.20

窓ガラスを叩く音がした。事務の丸い女だろうかと思って目を開けると、ミンソが微笑んで見下ろしていた。手招きしている。まだ夜は明けていなかった。ホテルからまた戻ってきたのだろうか。後部座席の太田はいびきをかいていた。宇都宮は太田と自分を交互に指さし、「二人とも?」とジェスチャーでミンソに聞いた。ミンソは首を振り、宇都宮を指さした。宇都宮は再度、太田の様子をうかがい、物音を立てないように車の外へ出た。

ミンソはそうするのが自然なことであるかのように、宇都宮の手を取った。まだ酔っているのかもしれない。宇都宮はどぎまぎし、「トゥーンは?」と周囲を見回したが、誰もいなかった。ミンソはまた首を振り、宇都宮を見て微笑んだ。宇都宮は、これは大丈夫ってことだよな、と自分の中で検証し、ミンソの手を握り返した。

それから宇都宮とミンソは手をつないで夜道を歩いた。大学裏の斜面を上りきり、ファミレスに行った時とは反対の方へと歩いた。ガードレール替わりのフェンスがところどころ歪んでいた。雑木林の前に腰くらいの高さの真っ赤な鳥居が立っており、奥に同じくらいの高さの社があった。賽銭箱の脇にはワンカップ酒が置かれていた。梁の左右にイノシシと龍が彫られ、イノシシは口を閉じ、龍はあけていた。

コインランドリーがあった。看板はまぶしいくらいに光っており、洗濯機も回転していたが、人の姿は見えなかった。自分たち以外、起きている者は誰もいないようだった。宇都宮とミンソは何もしゃべらなかった。黙っていてもお互いを感じられた。しゃべる必要がなかった。行き先も決まっていないが、かまわなかった。

線路沿いに出た。電車はもう走っていない時間だった。線路の下が歩行者用のトンネルになっていた。中は暗く、蛍光灯が切れかけてチカチカした。

トンネルを抜けると石塀の崩れかけた家があった。砂利敷きの駐車場に青い乗用車が止まっていたが、石塀同様、家の外壁もぼろぼろで人の気配はなかった。雑草が石塀を超えて垂れ下がっており、大男が塀に手をかけて身を乗り出そうとしているように見えた。皮がぎざぎざし、とがった葉が放射状に伸びる南国っぽい木も植わっていた。そうかと思うと向かいの家には庭木が一切なく、ブロック塀を高く積み、屋敷のような黒い瓦屋根がのぞいていた。自分が今どこにいるのかよくわからなくなった。塀の上で白い猫がこっちを見ていた。

橋があった。石の手すりの周囲は手のような形の葉で覆われていた。葉の隙間から下をのぞくと川が流れており、サギが一羽、立ったまま眠っていた。

橋の角は家庭ゴミの集積所になっており、ネットが丸められていた。ばきばきに折れたビニール傘が捨ててあった。汚れたダンボールからブラウン菅のテレビがのぞいていた。「笑顔であいさつ町内会」という標語と、ニコニコマークの描かれたノボリが立っていた。下の方が破れていた。

坂がきつくなり、山っぽさが増した。植えられたのか自生してるのかわからない草木が鬱蒼としてきた。木にプレートがかけられ、「イヌビワ」と書かれていた。どの辺がイヌなのかわからなかった。となりの木には「ヤマモモ」と書かれていた。モモだとかビワだとか、実のなる木ばかりだった。ヤマモモのプレートは人の頭の高さくらいの位置にかかっており、根っこからプレートまでは木が二股になっていて足みたいで、変になまめかしかった。

トタンでできたほったて小屋があり、赤く錆びていた。道路側はすだれで覆われていて、「すいか」と書かれた看板が横倒しになっていた。野菜の直売所のようだ。その先にラブホテルが建っていた。黄色い建物の上部は塔のように尖り、ひもに渡した万国旗がぴらぴらはためいていた。以前は階段か足場があったのか、建物の二階に急にドアだけがあった。宇都宮はミンソを見ると、ミンソもこちらを見た。何の不安もなかった。二人はホテルに入った。

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