「抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年」(最終回)藤原達郎

2017.09.27

「飛び込まないでね」
「え?」
「海、飛び込まないでね」笑顔だった。
「はい」
「だめだよ、飛び込んだりしちゃ」
「飛び込みません」
「いや、飛び込みそうな顔してたから」
「こういう顔なんです」

手旗の男は首にかけた笛をくわえてビーッと吹き、ばばばっと手旗で船に合図を送った。宇都宮は笛の音で耳がきーんとした。

手旗の男は「君、なんだか臭いな。これ使いな」と言ってポケットから汗拭きシートを取り出し、宇都宮に差し出した。宇都宮はシートをもらい、顔を拭き、胸から脇の下にかけても拭いた。すーすーして気持ち良かった。手旗で合図を送った船からボーと汽笛が返ってきた。

「手旗信号ですか?」
「何に見える?」
「え?」
「何に見える?」
「手旗信号に見えます」
「じゃあ手旗信号だよ」男は意地が悪かった。
「さっき、何て合図したんですか?」
「ススメ、だよ」男は旗を振った。
「トマレもあるんですか?」
「トマレは、こう」男は旗を振った。機敏だった。
「無線とかじゃないんですね」
「ん、素人は、そう思うよね」手旗の男は鼻で笑い、得意げに言った。宇都宮はなんだかイラッとした。
「無線だと複数の船が同時に送ると混線しちゃうでしょ?だからアナログでやってんの」
「あぁ」
「中国語とかロシア語も入ってくるんだから」
「…韓国語もですか?」
「入るよ、そりゃ」
「…韓国に行く高速船にも合図を送ったりますか?」
「ビートルのこと?」
「はい」
「昼の便はもう出ちゃったから、次は二時間後だよ」
「あ、そうなんですね」
「君、ゲロ吐いた?」男は鼻をすんすんさせて顔をしかめた。宇都宮はまだ臭いようだった。
「いや、僕じゃないんですが、車ん中がちょっとゲロまみれで、えぇ」
「…使いな」手旗の男は汗拭きシートをもう一枚出した。宇都宮はまたすーすーした。

事務所らしき建物の横に皮のやぶれたソファや冷蔵庫が無造作に捨てられ、ビニールシートがかけてあった。ひからびたタイヤが山積みになっていた。業者のジャンパーを着た髭面の男が海を見ながら煙草を吸っていた。

「乗るの?ビートル」手旗の男が言った。
「いや、乗りませんけど」
「じゃあ何?」
「見送りです」
「…二時間後だよ?」
「いや、その、昼の便を見送りに来たんですが、間に合いませんでした」
「彼女?」
「友達です」
「友達以上彼女未満?」
「友達です」
「不倫?」
「友達です」手旗の男はぐいぐい来て鬱陶しかった。

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