【寄稿】2017年度福岡地区高校演劇大会A日程 文字による講評(田坂哲郎)

2017.11.26

去る10月6日(金)〜8日(日)に行われた福岡地区高校演劇大会A日程で審査員を務めた田坂哲郎より、各校の講評の完全版が届いた。

はじめに

元々、審査員は大会後に文章での講評を提出する必要があります。それは、年度末あたりに総括資料として各校に配られるそうなんですが、全体で2000字以内という条件がついています。去年、とりあえず書いてみたら6000字になってしまい、一度そのまま提出したのですが、やはり削ってくれと言われて、なくなく2000字にしました。

しかしそのときに、そんな文字量では到底語り尽くせないし、誤解を与えかねない。暗転がダメだ、ではなく、なぜここの暗転が必要ないと感じたか、を書く必要があるのに!と思ったのです。そこで、今年は講評を書く際に、はじめから超短縮版として委員会側には提出し、完全版は別の場所に発表しようと考え、自身のブログとも考えたのですが、より公共性があり書く俺も緊張する場所のほうがいいだろうと思い、mola!に掲載してもらおうと思い、委員会側にも許可をとり、そのままmola!に連絡しました。

ですから、B日程は別の審査員の方が文字講評を書いているはずです。その分は、年度末の総括資料で読んでいただければと思います。

10月6日(金)

筑紫女学園高校『ハルコー物語』(作・演出:中村玲那)

名前のある生徒が5名で、アンサンブル(生徒)と表記されてる生徒が2名なんだけど、正直、実行委員の2名以外は全員アンサンブルでも問題がないくらいの扱いだったように思います。文化祭の出し物を巡る話なのに、誰がやる気があって、誰が反対してて、っていうのが見えてこない。だから、みんなの力でハルコー賞がとれた、っていうラストがいまいちピンときません。部員数も結構いるし、もっと一人一人の思いをぶつけあうような作品を作ってみてはどうでしょうか。大事なのはストーリーをわからせることではなく、登場人物たちの心が動いた瞬間を描き出すことだと思います。

博多工業高校『Kのために』(作:立山浩文・博工演劇同好会、演出:横松稜也)

幕が上がると、老人たちがラジオ体操してる。この出だしは結構いいなって思いました。車いすの人もいるし。ただ、この車いすの人が一番目立つのに、最初のラジオ体操しか出てこないのがとっても残念。

Kから始まる様々な言葉、たとえば劇中では、会社、結婚、看護、高血圧、孤独、という具合にたくさん出てくるんですが、老人たちの人生の中で、これらKから始まる言葉が常に関わっている……という発想は面白い。だけど、劇中の老人たちの人生に全然興味が持てないから、言葉が入ってこない。老人たちの語る人生にリアリティがない。よくある話を構造だけぶっこ抜いて話されてる感じがするんですよ。それ、誰の話なの? っていう。例えば実際に自分たちの祖父母から話を聞いて、そこから構成した話だったら、すごく感動できたかも、と思います。

香椎高校『拾ってください』(作:楽静(既成)、演出:内田望天)

脚本は全然面白くないんですよ。よく考えもせずに刺激的な言葉並べてるだけで、なにもない。ただ、俳優3人のテンポの良さに救われました。特に前半は面白かった。だからこそ、もっと面白い脚本でやればいいのに、ものすごく損してる。やるならやるで、この脚本のテーマが堕胎だとして、それについて演じる自分たちはどう考えたのか、って部分をもっと掘り下げないとだめだと思います。既成でも創作でも、脚本に疑問を持たないとだめだと思います。

舞台装置は、電信柱が空間を効果的に区切っていました。いかにしてだだっ広い舞台を使いこなすかっていうのが高校演劇の難しいところだと思うんだけど、ストレスなく観ることが出来ました。

10月7日(土)

修猷館高校『「Are they right?」』(作:修猷館高校演劇部、演出:演劇部)

やり玉にあげちゃって申し訳ないけど、作、演出のところに演劇部って書くの、福岡地区の悪しき風習だから今日限りでやめよう! 全員で書いたわけではないでしょう? せめて連名で書くべきです。みなで話し合ったとしてもまとめた人間がいるはずです。どうしても、脚本の重要さについてわかってないという感じがするのです。書き上げた人間に敬意を払うという意味でも、責任を持つという意味でも、名前、書きましょう。

私は、高校演劇でこういう魔王とか勇者とか出てくるのは、どんどんやれ! という派です。高校の演劇部の部室を舞台にするより(個人的には)好感が持てます。ただ、どんな設定の世界を作ろうが、描くべきは人間だということを忘れてはいけません。劇中では魔物が奴隷として虐げられている場面がありますが、ただなんとなく上手の奥でいじめているだけでした。なぜ彼らは奴隷に憎悪し攻撃するのか、を掘り下げる必要があります。生まれたところや皮膚や目の色で差別されるなんてことは、人類の歴史を紐解かずとも、皆さんの周りにもいくらでもあることで、そういう目をそむけたくなるような事実に切り込んでいくことこそファンタジーの使命なのです。

それから、場面、ということをもっと考える必要があります。観ていて、物語を伝えるためだけに場面が進行している感じがしました。結果、皆さんが何をどう見せたかったのがわからなかった。また、場面の始め方、終わり方については、アニメの手法で作ってるな、という感じがしました。結果、暗転の多い舞台となりました。これについては、どうかお芝居を見に行ってください。今回の作品で言えば、歌舞伎や、劇団☆新感線がヒントになると思います。それで解決することがたくさんあると思います。

福岡舞鶴高校『尽生』(作:空色こうもり(既成)、演出:福岡舞鶴高校演劇部)

中年男性女子高生、ニート。異なる立場の三人が立場を入れ替わり、お互いの生活を体験する。設定自体は悪くないんですけど、やっぱり脚本がよくない。設定の不具合を埋めるために小さなうそをつき続けて、結果、必要ない設定や説明セリフがめちゃくちゃ多い。練習してて、めちゃくちゃ違和感感じたんじゃないでしょうか。というか、感じたほうがいいい。本を読みこむってことがないがしろにされてる印象を受けます。「生と死」とか「自殺」とか取り扱ってるだけで、なんとなくテーマがありそうって程度の読み方してたらまずい。設定や人物の心の動きに気持ち悪いところはないか、自分たちがこれでやれそうと思えるか、ちゃんとみんなで話し合う時間を設けたほうがいいと思います。俳優は、中年男性役の藤田君と助手役の川口さんが目を引きました。特に川口さんは、何役も演じ分けていて最初同じ人だとわかりませんでした。

博多青松高校『ア ガール イン ブリリアントワールド オブ ア ボーイズデイドリーム』(作:橋谷一滴、演出:橋谷一滴・大山夏菜子)

引きこもりになりかけてる高校生が、好きな女の子のために外に出る話。シンプルなんだけど、最後はきれいに落とすし、主人公の成長も無理なく描かれていて面白かったです。

主人公の部屋を直方体の枠で囲って表現していたのだけど、観客への見え方の配慮と、舞台装置として出したい閉塞感を同時にクリアしていてすごいと思いました。主人公が外に出るときに後ろの大黒幕が開いて抜けるような青空が広がるという演出は、今大会一番の爽快感と言って良いのではないでしょうか。

俳優は、セリフに振り回されている印象がありました。中盤乗ってきたテンポが後半下がってしまってたので、最後まで気持ちいいテンポでいけると、もっと面白かったと思います。

春日高校『「しんぷくのとも」』(作・演出:岩渕明季)

審査員をするときは、気になったところをメモしながら観るんですが、ここ春日高校は、たった二言だけ、しかも、面白かったセリフ。それだけ、最初から最後まで目が離せなかった作品でした。たった一人の演劇部員、という設定は俳優自身の境遇とも重なり、彼女にしか見えない「御手洗さん」との交流は、度を越した一人遊びにも、寂しさの果ての妄想にも見えてきます。だからこそ、劇中明かされる御手洗さんの正体がちょっと拍子抜けでもあります。このあたりがうまく整理されると、さらにいい作品になるのではないでしょうか。

福岡西陵高校『ささやく星空の下で』(作:大塚友絵・福岡西陵高校演劇部、演出:大塚友絵)

舞台装置、しっかりと作りこんでいて目に楽しい舞台でした。

セリフが皆さんゆっくりで、すごく待たされている感じがしました。日常会話で話が進んでいく舞台なのに、日常のリズムになってない。普段、もっとポンポン会話すると思うんですよ。全てのセリフをゆっくりしっかり言うことで、かえって聞かせたい言葉や届いてほしいことが伝わってこない、そんな印象を受けました。

星座研究会の部室で天体望遠鏡が壊され、犯人探しが始まる。物語の出だしはとても興味をひくものでしたが、もうひとつうまく転がってほしかったです。犯人探しをしていく中でそれぞれの隠された思いがさらけ出されていくようにしたかったのだと思いますが、思いがさらけ出されたその先がないのがもったいないです。星座研究会、という設定をうまく遊びきれてない感じがしました。

10月8日(日)

西南学院高校『紡ぐ人』(作:吉田美悠、演出:吉田美悠・奥村洸平)

14回×20秒。合計5分近くお客さんに暗闇を見せている、ということの意味を稽古中に考えるべきでした。暗転の話です。暗転は、場面を転換するために仕方なくするものではありません。この文章は、西南だけでなく、来年以降の演劇を作る高校演劇部員全員に届いてほしいと思って書いてます。「その暗転は本当に必要か?」すべての演劇部の部室に貼ってほしい。僕は、暗転しなかった、少なかった、ということがプラス点になってしまうような審査はしたくないのです。でも現状、そうせざるを得ないような状況があるのです。

「言葉の力」をテーマにした作品でしたが、実際に言葉で傷ついたり、言葉で癒されたりする場面がないので、人物の言葉に説得力がありませんでした。そして、言葉を失う、ということについて詰め切れていないことで、様々な矛盾や疑問点が生まれてしまったことが残念だと思います。「言葉を狩る」というアイデアに引っ張られ、本当に伝えたかったことがぶれてしまったのではないかと思います。

北海道芸術高校『女子高生と猫』(作:眞鍋留美、演出:熊谷眞子・山﨑梨沙)

俳優の演技にぐっと引き込まれた舞台でした。セリフが瑞々しく刺激的で、サキが先生に言いよる場面など、観ていてドキドキしました。しかし、場面のひとつひとつは面白いが、緩急に欠け、つなぎがうまくいってない感じがしました。演出も一人のセリフを複数人で言わせたり、たくさんの技法を知っているなと思いましたが、やってるだけで終わってしまったと思います。ただかっこいいだけで、そこに意味が見いだせないのです。最後の段ボールから猫(ではなかったわけですが)を取り出す場面も、ト書きだとよくわかるのですが、実際に舞台上で起きたことだけではわかりづらく、もったいなかったと思います。

筑紫台高校『BITTER SWEET』(作:福澤嘉之(顧問創作)、演出:筑紫台高校演劇部)

一応顧問が書いてるだけあって脚本っぽくはなってるんですけど、内容はかなりひどいです。しっかり舞台装置を作りこんでるのに、舞台がどこなのかわからない。レストランの厨房にしては人数が少ないし、菓子屋の厨房にしては大きすぎる。専門学校の調理室にも見える。ただ、言葉として「お店」と出てくるだけでそこをどこか説明した気になっているとしたら問題です。大事なのは、登場人物たちがそこがどういう場所だと認識して存在しているか、です。登場する人たちも、どういう立場の人たちなのかがよくわからない。働いてる感じもしないし、働いている年齢だとしたら、やっていることが幼すぎる。すべてが「ふわっとしてる」んです。登場人物の上下関係、力関係を均一にしようとする力が脚本の中に働いていて、これのせいでつまらなくなっている。更に、記憶喪失であることも、パティシエであることも物語を動かすための必要な素材になってない。

装置や衣装がしっかりしていて、俳優たちも魅力的です。もう少し間を詰めて、相手の芝居を受けることが出来ればかなりいい線行くと思います。でもそれも、しっかりした脚本あってこそ。生徒が書くなり、自分たちにあった既成脚本を探すべきではないでしょうか。

筑紫丘高校『桜花爛漫』(作・演出:岩元妃香)

女子高生が、大正か昭和初期(脚本に明記されてないので)にタイムスリップし、検閲と戦う劇作家と出会う。それだけでも乙女ゲームのような展開だなと思いましたが、実際に出てくる劇作家や、劇団の女優がめちゃくちゃかっこよくて、2.5次元系の舞台を観ているようでした。「笑の大学」との類似を指摘されている先生もいらっしゃいましたが、落とし方が真逆なので僕は問題ないと思います。検閲でダメにされた場面を、作家の意見も踏まえつつ検閲で引っかからないように書き換えていく。この場面は、とてもよくできているのでもっとしっかりやった方がいいと思います。結果だけ見せられるより、そこにいたる過程も見たいです。書き直していく中で女子高生と作家の中に友情以上のものが芽生えていくわけですが、その部分こそがこの作品のおいしいところだと思うので。

ステンドグラスのような舞台装置も、最後に降る桜吹雪もとてもきれいでした。が、感動できたかというと僕は全く心が動きませんでした。主人公のとってつけたような悩み、ルナの存在の都合よさ、登場する作品の多さ(「作家の作品」「ロミジュリ」「シンデレラ」)などに邪魔されてしまったのかもしれません。

須恵高校『Be the light』(作・演出:内田将太郎)

非常に挑戦的な作品でした。高校演劇をディスりながら、高校演劇愛にあふれてる脚本に、ギラギラしたものを感じて楽しかったです。「高校演劇は好きだけど、演劇は好きじゃない」というセリフには衝撃を受けました。そんなこと、一度も思ったことがなかったので。個人的には是非演劇も好きになってほしいと思いますが。

主人公がすらっとした美人で、それを助ける相棒役がちょっと背の低い三枚目の男の子っていう組み合わせのチョイスが青春映画のようでよかったです。

表現したいことがたくさんあって、それを大して勉強もせずにやってしまう。僕もそうだったし、今はそれでいいと思う。結果的に完成度は落ちるから作品の評価はけして高くないけど、のびしろを感じました。表現することを続けてください。

書き終えて

僕が審査員として呼ばれている理由は、高校演劇を教育者ではない視点から見る人間の言葉が必要だ、ということを教育者サイドが考えている、ということだろうと思っています。だから、「高校演劇としてはこうだ」みたいな言い方をされるとイラっとしてしまうこともありました。脚本の生徒創作を奨励するなら、(たとえばですよ)天使や悪魔が登場したり、タイムスリップしたりすることを頭ごなしに否定せず、なぜ高校生たちは天使を登場させたがるのか、にきちんと向き合う必要があると思います。

等身大の表現、ということが正しいことのように言われがちですが、僕はこの言葉があまり好きではありません。むしろ、まったく別の何かになろうとしている方が好感が持てます。これは、僕が現役高校生だったころから考えが変わっていません。(だから僕は、高校生役というものを学生時代書いたことがありません)

高校演劇を見るとき、僕はどうしても自分が高校生だったころに戻ってしまいます。だから、各校に書いてきた言葉は、演劇を仕事にしている大人というより、高校演劇の先輩からの言葉になっている気がします。それがいいことかどうかは分かりませんし、高校生の皆さんからしたら、顧問の先生と変わらないくらいおじさんだと思います。おじさんの言葉なんか気にせずに、自分たちの作りたいものを作ってくれたらと思いますが、どこか一か所でもなるほどな、と思ってくれたら僕は満足です。

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