車の歌(第1回)

2021.02.11

 軋むドアを開け、「あす」と和田は言った。「おつかれさまです」を雑に言った結果そうなった。事務所内のほこりっぽい空気がストーブによって暖められ、カビ臭さを強調していた。支店長の小野が、急須に茶をいれた。
「おかえりなさい。寒かったでしょう」
「はい」
「お茶、どうぞ」
「はい」
 和田は湯飲みを受け取り、ジャンパーを脱いで茶を飲んだ。熱い塊が喉から胃へ落ちて行くのがわかった。味はわからなかった。
 小さな支店で、社員は小野と和田の二人だけだった。壁紙の端はめくれ、全体的にヤニで黄ばんでいた。エアコンはやはり壊れていた。棚には展示会の紙袋や何のものだかわからない書類、数年前の週刊誌などが乱雑に放り込まれ、分厚いファイルは将棋倒し、あったはずの物もなくなる並行世界、自由と無鉄砲をはき違えたカオス、人に例えるなら反抗期、荒くれ者たちの宴、乱行パーティー、嘔吐、二日酔い、だめになった休日、後悔、同じ過ちの繰り返し……要するに掃除していなかった。
 小野は小柄で、腹が出、禿げていた。年齢は知らないが、じじいだと和田は思っていた。口をすぼめてボソボソしゃべるので、何を言っているのか聞き取りづらく、聞き取れない時は「あ、はい」「そうなんですか」「そうなんですね」「へえ」を使い分けて対応した。
「今日はどうでした?」
「特に、何も」
「了解しました。私は今日、窓から外を見てましてね」
「あ、はい」
「線路の上にカラスがいるのが見えましてね」
「あ、はい」
「ひょこひょこ歩いてましてね」
「あ、はい」
「電車に轢かれやしないか心配でしてね」
「何がですか?」
「2時間くらい見てましてね」
「あ、はい」
「電車が来たら飛んで逃げましてね」
「へえ」
 といった具合で、朝礼と夕方の報告だけが二人の接点だった。定期的に担当先を回るのが和田の仕事で、受注のある時はあり、ない時はなく、週の半分は「ない」と報告していた。
 小野は和田の教育係を兼ねており、最初の数日こそ、営業先への紹介で同行したものの、基本的にずっと事務所にいて、何をしているのかよくわからなかった。出会ってすぐ、和田は自分と似たものを小野から感じ、嫌な気持ちになった。「こいつは使えない」と直感した。和田が楽するためには、周りの者が和田の分も苦労せねばならず、そして現在、その対象は小野なのだが、小野が和田の分も働いているとは到底思えなかった。共倒れの臭いがぷんぷんした。かと言って和田に小野の分も働く気など毛頭なく、倒れつつある様を「あーあー」言いながら他人事のように眺め、成り行きに任せるのが常であった。

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