やよひ住宅(第1回)

2021.02.16

 羽水さんには秘密が似合う。この場所で向かい会うと、少しだけ、ほんの少しだけ、父の隣に住んでいた銭湯の女と似ている気がした。顔だちとかそういう外的要素だけではなくてもっと根源的な、何か。あのひとからも秘密の気配がした。秘密といっても、例えば犯罪めいていたり卑猥な感じがしたり、そういう類ではなくて、どちらかというと無色透明で一切匂いのしないことが秘密のもとにあり、だから決してこの手でつかむことはできない類の秘密だった。
 あのひとは生きてる感じが薄かった。
 つきつめれば父とも似ていた。
「ちょっと?」
「ちょっと用事です。なんでもいいじゃないですか。」
「えと、僕のこと知ってます?」
「出荷の夏目さんですよね。」
「そうです。総務の羽水さん。」
「何かご用ですか?」
「用はないですけど、まさか買うんですか?」
「は?」
「ほら。」風にひるがえる幟旗を指さしたら、羽山さんは迷惑そうに「買いません。ていうか買えません。」と言った。ですよね。
「寒くないですか?」
「寒いですよ。」
「まじ寒いわー。」
「・・・。」
「ここたぶん入っちゃいけない感じだと思いますけど。」
「でしょうね。」
「ですよね。たぶん。」
「けど大丈夫じゃないですか。」
 羽水さんは体育座りをして膝掛けをかけなおした。脚をすっぽり包みこんでいて温かそうだ。
「ま、そうですね。誰もいないし。」
 羽水さんはちらっとこちらを見た。
 通り沿いにありながら、自分たちを気に留めるひとは誰もいなかった。そもそもひとが歩いていない。祝日の夕暮れは車もバイクもあまり通らない。
 日はだんだん暮れてゆく。羽水さんの顔にも今は弱い光が当たっているが、やがて闇に呑まれて見えなくなってしまう。顔を照らすには今夜の月は細すぎるし、雲もある。
「敬語やめませんか?ほら、職場じゃないし、自分同い年だし。」
「同い年なんですか?」
「矢部くんと一緒だから。」
「じゃあ違いますよ。」
「え。」そんなはずはない。矢部くんの言葉を信じるならば。
「矢部さんはたしかひとまわりくらい歳上です。」
「同期入社じゃないんですか?」
「中途採用の同期です。わたしは二十九歳。」
 矢部くんはひとまわりもさばを読んでいた。

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