やよひ住宅(第4回)

2021.02.19

 叔母はわたしが物心ついた頃にはすでに、やよひ住宅にひとりで住んでいた。もともと彼女の婚約者が暮らしていた家で、ソメイヨシノの下にとめてある古ぼけた白いビートルも婚約者が乗っていたものらしい。免許を持っていない叔母はいつもエンジンだけかけて、運転席にわたしを乗せてくれた。ドッドッドッドと大きな音がするので、エンジンがかかってる間、わたしたちはいつもより大きな声でしゃべった。敷地内には他に磯辺さんの家しかいないので、迷惑がるひともいない。
「ねぇきみえちゃん、」
「ん?」
「きみえちゃんはなんで運転しないの?」
「免許持ってないからね。」
 叔母は運転席のドアを閉めて、助手席側に回ると、車に乗り込んできた。レバーをくるくる回して窓を下ろした。「よし子も窓開けて。風が入って気持ちいいよ。」
「動いてないのにさーぁ。」
 とむくれて言いながら、わたしはレバーを回した。窓が開くと動いていないのに急に風が入ってきて、 わたしは少しだけ身震いした。
「免許って、どうすれば持てるの?」
「自動車学校行って、試験受ければとれるよ。」
「じゃ、自動車学校行けばいいのに。」
「私はもう、いいの。」
 と叔母は言いきった。穏やかではあったけれど、きっぱりと。
 その時わたしはなぜか、「どうして?」と訊けなかった。
「よし子はさ、今の、この桜みたいなものだよ。」
 叔母は窓から顔を出して頭上を見た。
 わたしも同じように顔を出して頭上をみた。ソメイヨシノの枝が、絡まった毛糸のように這い回り、朱い空を埋め尽くしていた。よく見ると、つぼみのもとみたいな膨らみがそこかしこにあった。
「枝の先がちょっとずつ膨らんできてるでしょ。花がいっぱい咲くんだよ、これから、びっくりするくらいきれいで、きれいで・・・」
 叔母は眩しそうな顔をしていた。眩しそうで、けれど翳っていて、わたしは自分がどんどん心細くなるのがわかった。ねこぶがいれば駆け寄って抱き上げたいと思った。でも近くにねこぶの姿は見えない。
「じゃ、きみえちゃんの桜はどれなの?」
 叔母はしばらく考えて、樹の根元を指さした。
「なにそれ。」
「きれいな花が咲くように、倒れないように、支えるの。」
 わたしは車を下りて、助手席に回り込んだ。
「同じ桜なんだから、つぼみも根元も一緒だよ。」
 叔母は視線を上げて「そっか、そりゃそうだ。」と笑った。
「よし子、免許とったらさ、この車で遠くに連れてってよ。ナット・キング・コール聞きながら、ぶっとばそう!」
 大きなエンジンの音が一層高くなった気がした。

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